コミュ障ナンパ師けけの北海道179ナンパブログ

自由に生きたい、人間大好きコミュ障・自閉くんの僕が型に縛られない自由な対人関係を求めて旅するブログです

学生さん必見!健常者って誰の事?僕の研究結果を見てください④ [障碍者]

はい、どーもけけです!!





内容は稚拙で駄文ですが、福祉に興味のある学生さんや、障がいってなんなのかなって思った人の目に入れば僕も幸いですのでよろしくお願いします。

ではいこう!


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1.監禁された狂気

 明治4年、東京府は「裸体禁止令」を出した。明治になって近代化を推し進めようとしていた日本は外国人の視線に敏感に反応していた。日本にとって外国(主にヨーロッパ諸国)は文明を意味していて、文明に「野蛮」だと見られることを恐れた。文明に「野蛮」とみなされた国は植民地化される可能性があったからだ。裸体を禁じることは現在の常識では当然のように思えるが、当時の日本人にとって裸体は極めて自然だった。

「野蛮」と見なされない為に、当時の日本は文明化に躍起になった。この文明化の意思を担ったのは警察権力だった。警察権力による文明化は「社会」そのものを矯正しようとするものだった。このような権力が「精神障害者」を対象としたのは文明化を目指してすぐのことだった。それは社会を徘徊する「狂気」を捕らえようとする動きだった。明治7年3月、創設されたばかりの警視庁は、ひとつの命令を出した。「狂病を発する者はその家族において厳重監護せしむ」。これは精神障害者の厳重な監督を家族に命じたものだった。なぜ監護するのが家族だったのか。それは、明治初期に精神障害者を収容する施設(精神病院)がまだ存在していなかったからである。そのため警察は家族に監督を申し付けることしか出来なかった。精神障害者は福祉的な保護や医療の対象になったわけではなく、あくまで治安のために警察権力が社会から排除しようとしたのだ。警察権力によって精神障害者管理は家族の責任とされたが、ここで問題が生じた。家族がないか、あったとしても様々な理由から面倒をみることが出来ない場合、精神障害者は路上に彷徨い出ざるを得なかったということだ。社会から排除され、家族に閉じ込めることもできない、行き場のない精神障害者たちが送られた先が浮浪者や物乞いを強制収容して生まれた養育院だった。この時期、東京には既に病院があり無料で治療も行っていたが、精神障害者は病院に収容されなかった。精神障害者に専用の施設がなかったどころか病院に入れられる事もなく養育院に収容されたところから考えると、「狂気」は病ではないという認識だったのかもしれない。こうして明治8年、養育院の中に「狂室」という部屋が設けられ、精神障害者の収容が始まると入所希望者が殺到し、すぐに「狂室」の増築が必要となった。そして明治12年、養育院から「狂室」が独立し「東京府癲狂院」が設立された 。癲狂院は事実上、戦前において唯一の公的な精神病院であった。

 では精神障害者が監禁されるのはどのような時だったのか。当時の文献によると、「甲 危険行為が一再ならずして頻繁に現わるるのみならず、その性質頑強にして持続性なるもの。乙 家庭において到底看病し得ざるもの。 丙 慢性の伝染病を合併しおるもの(肺結核のごとき)。 丁 度々犯罪をなしたるもの。戊 監護義務者なき浮浪者 」と書かれている。つまり、その危険性によって家族の監督能力を超えた者、あるいは監督する家族がない者である。こうした者たちが「危険な精神障害者」だとされ、精神病院に監禁されたのだ。ここに「狂気」を取り巻く社会的な処遇が姿を現す。「狂気」を監禁する社会それは精神障害者とその家族、精神病院、そして警察によって成り立っていた。まず、精神障害者は家族が監督する。だがその危険性のために家族が監督できない場合は、精神病院に収容する。そしてその全てを警察が管理する。「狂気」はこのように処遇され、監禁されたのだった。






2.精神医学の作り上げたでっちあげ

 同じく明治期には日本の刑事裁判では犯罪事実だけではなく、それよりも重要なものとして犯罪者という人間が関心の的になる。明治41年、現行刑法が施行された。時の司法大臣はこの刑法の運用に関して次のような指示を出した。「改正刑法の主眼とする所は、犯人の性格に鑑みて刑を量定するにあり」。われわれの刑事裁判は、ここにそれまでの裁判のあり方から決定的に隔てられることとなった。封建的な江戸時代の刑罰では「罪」そのものを裁いていたが、この時から「人」を裁くようになったのだ。

法を犯せば罰せられるのは当然のことだが、罰せられるのは犯罪によって生じた被害を償うためでも、贖罪のためでもないという見解を示したのが刑法学者、牧野英一 だった。牧野にとってある人間が犯罪に及んだという事実は単に「法律が犯された」ことを示すものではなかった。犯罪が起こったとき明らかになるのは法律を犯す人格をもった人間がいるということで、「そこに法律を犯すような人間が存在している」と牧野は考えた。犯罪を起こすような人格は「悪性」あるいは「反社会性」と呼ばれていたが、犯罪はこの悪性が現れた結果だというのである。それゆえ刑事裁判は犯罪ではなく犯罪者の悪性に目を向けなければならず、犯罪者が罰せられるのは法律を犯したからだけではない。それは彼らに悪性があったからで彼らはその悪しき人格ゆえに裁かれるのだ。悪性は病気の一つのようなものであり悪性を治療することによってこれを予防し、犯罪を防ぐ、これが牧野の主張だった。

 では悪性とは一体、何なのか。明治43年精神科医の杉江董は次のように述べた。「悪性を研究するのは、ただに刑法学上並に立法上の問題ではなく、心理学、社会学、または吾々の専門に属する精神病学の方面からも研究して行かなければ、到底十分な解決を望むことはできなかろう 」。悪性について答えを出すには心理学、社会学、精神医学の助けを得るべきだと杉江は言ったのだ。これによって悪性をめぐる議論に精神医学が加わった。では精神医学は「悪性とは何か」という問いに、どのような答えを出したのか。

 犯罪者の中には精神障害者が混じっている。この事実から精神医学は飛躍した発想を持ち出した。「犯罪者と精神病者というものは余程関係の近いものである 」精神医学は法を犯した精神障害者という存在から、悪性という問いにひとつの解答を提示した。「個人性質または人格にして、ことに犯罪的傾向に陥りやすき特質とはいかなるものやというに、精神病者および中間者の有する特質なり 」犯罪傾向に陥りやすい特質とは精神障害者の持っている特質と同じだ、というのが精神医学の出した答えだった。「狂気」と犯罪と結び付け、狂気は犯罪を引き起こす源であって、悪性とは「狂気」のことなのだと結論づけたのだ。「狂気」が悪性と同一視されることになり、全ての精神障害者は危険視され犯罪者予備軍に仕立て上げられたといえるだろう。

 こうして精神医学は狂気と犯罪を同一視する理論を作り上げた。そして精神障害者犯罪予備軍に仕上げつつ、しかも社会問題となる存在に「狂気」を発見した精神医学は社会の治安のために「狂気」のすべてを精神病院に収容せねばならないと訴え始めた。





3.増えすぎた精神病院

 精神医学の主張は全ての精神障害者は危険だというものだった。そして社会には未だ多くの精神障害者が治療を受けずに存在していると説いた。時代は明治から大正になった頃、前述した「狂気と犯罪を同一視する理論」は広く一般に知られるものとなっていた。

大正5年、内務省に保健衛生調査会 が設置された。これは乳児、小児、青年、壮年者の死亡原因の調査、国民の健康に害を与える肺結核、性病、癩、精神病の予防と撲滅方法を調査するための機関だった。「狂気」は結核、性病、癩とともに、国民の健康を守るために予防すべき疾病の一つに数えられる事となった。精神障害者の統計調査(実数調査)はこれまでになく広範囲に及んだ 。およそ精神障害者がいると思われる所は全て調べられ、実数の調査にあたっては巡査が管轄地域の戸口調査を行った。巡査には「興奮、沈鬱、妄想、痴呆」など各状態を説明した「精神病者状態別説明書」が手渡されていた。さらに調査書には次のような指令がなされていた。「本調査にいわゆる精神病者は、従来内務省に報告せる公知の病者 はもちろん、精神異常の疑いありて、別紙精神病状態説明書に記載せる徴候に該当すと認むるものについては、警察医または医師の意見により精神病者またはその擬似症者と認定せられたるものを算入すること」。

社会にはもっと多くの精神障害者がいるはずだというのが精神医学の見解であり、精神医学の知見を頼りに警察が発見していく対象者は今までの「精神障害者」に留まらなかった。これまで「精神病者」と見なされなかった者でも精神医学的には「精神病者」と見なされる者、及びその「擬似症者」まで対象とされた。この調査が明るみに出そうとしたのは、これまでグレーゾーンと考えられてきた健康者と精神障害者の中間層の者たちだったのだ。「擬似症者」とは症状が真性伝染病とよく似ているが、症状が不十分でまだ決定しかねる時の名称であった。当時、「擬似症者」と似た意味を持つ言葉で「中間者」というものがあった。「中間者」は健康者と精神障害者の中間にあるものという意味で使われていたが、他にも変質者、精神病性人格、遺伝変質者、精神失墜者、精神病的変質者、精神低格者、精神病的性格など様々な名称をもっていた 。「狂気」の範囲を何とかして拡大し、悪性を予防するため、その全てを精神病院に収容するべきだと訴えようとしていた当時の精神医学にとってこの「中間者」はなくてはならない存在だった。

 「精神病者と健康者との中間の境界は漸進的で、この中間の境界に位する人はまだ精神病者とはいえないが、しかしまた健康者ということもできない、確に一種の病者である 」。精神病院を設立するには、入院する必要のある者が大多数いることを世間に知ってもらなくてはならなかった。精神医学は統計調査に現れる「精神病者」の数値を増やすために、「中間者」や「擬似症者」といった健康でも精神障害者でもないカテゴリーを持ち出したのだろう。保健衛生調査会が行った調査の結果、全国精神障害者数は6万4934人であり、そのうち精神病院に入院していたのは5004人であった。入院患者数5004人は全体の7.7%にしかすぎない。これは残りの精神障害者が精神病院に入院せず、未だ社会に何の処遇も受けずに放置されている事を意味していた。また収容施設をもたない県が全道府県のうち半分以上もあることが明らかになり、この事実は精神病院設立を訴えるのに十分なものであった。

こうして精神病院は「狂気」を監禁する場所として建てられたが、民間の業者まで名乗りを上げ大量に建てられる事となった。ここには法を犯した精神障害者だけではなく、本来の精神障害者から福祉の対象とすべき生活困窮者、地域社会や家族の厄介者、精神病質者、アルコール・薬物依存者、そして単なる犯罪者までが精神病院に押し込まれていった。当然、精神科の専門医は足らず、専門科と関係のない医師が院長という精神病院は多数出現した。そこで治療行為はほとんど行われず、ただの監禁に等しい処置であった。精神病院は社会で生活していくのには困難な者を収容するだけの施設となりその数を増やしていった。


精神病院設立のため「いかがわしい中間者」というあやしいカテゴリーを作り出し、健康者と精神病者との中間にいる者は一種の病者であるとした。前述してきた「狂気」の歴史から精神医学は健康者と精神病者の境界を左右する事の出来る権力の一つであったといえる。「精神病者と健康者の中間に位置するものは一種の病者である」といい、その中間者さえも精神病院に収容し治療の対象とすべきと訴えたのだ。そして健康者の範囲を狭め、「見えないもの」を「見えるもの」に仕立て上げた。こうして精神医学は「狂気」を判断・発見するための大きな権力となった。





次回に続きます~

こっちの方でも昔ちらっと話したりしてます
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