学生さん必見!健常者って誰の事?僕の研究結果を見てください⑤ [障碍者]
はい、どーもけけです!!
ついに後半戦です笑
たぶん結論に向けて話をまとめている段階なので、前後がつながっていないと分かりづらい部分もあるかと思いますが、ご了承ください……。
内容は稚拙で駄文ですが、福祉に興味のある学生さんや、障がいってなんなのかなって思った人の目に入れば僕も幸いですのでよろしくお願いします。
ではいこう!
1.差別問題
正常と異常の中間(グレーゾーン)については前章で述べてきたように精神医学によってその境界は歪められていた。ここで考えたいのは「狂気」とは「悪性」であり、危険なものとされた歴史から生まれた「障害者」への差別意識についてである。
「障害」「障害者」「身体障害者」という言葉は1946年の身体障害者福祉法が制定されたのと同時に広く使われるようになったといわれている。このような言葉が使われるようになったことで、「障害者」と私たちは異なる存在だという差別意識も同時に生まれたのではないかと筆者は考える。
ここで一番ヶ瀬康子監修の『障碍者福祉論』で手塚直樹、丸山一郎らが述べている、今なお残る差別や偏見を以下に例示する。①忌避すべき存在とみられること。因果応報的な障害観はまだ残っており、忌むべき存在として障害のある人を見ている。「障害者サービスの施設ができると地域環境が悪くなる」と設置に反対するように、障害のある人々を同じ住民の一人として受け入れない。②非生産的存在としてみられていること。能率を追い、経済的なものに絶対的価値を認めている競争社会に色濃くみられる考え方で、障害のある人々の能力や可能性への無理解が潜んでいる。法律で障害者雇用の率が決められているが、未達成の企業が半数近くもある。罰則的な「雇用納付金」を納めることによってその責任を逃れている実情は、差別的な考えが改善されていないことの現れである。③同情、保護の対象とされていること。古来、親のない子、身寄りのない老人と並んで、働くことのできない障害のある人は、慈善・博愛事業の対象とされていた。社会的に弱い立場にいる人に対して同情を持ち支援の手を差し伸べるのは否定されるべきことではないが、そこに「障害者は自分よりも劣っている人、一人前ではない人」といった優越心や障害のある人イコール弱者すなわち保護すべき人といった考えがあるとしたら問題である。④ともに学び・働き・幸福を追求することへの制限や差別。国民は等しく基本的人権を享受できるはずである。すべての国民は個人として尊重され、生命、自由、および幸福追求の権利については、最大限に尊重されることになった。しかし実際には障害のある人々は、学校教育において、働く場において、結婚などに際して、多くの偏見、差別、制限を受けており、看過するわけにはいかない事実がある。⑤制度的に残る差別。法律や差別の中にも、差別や偏見が残っていたことにも留意する必要がある。これまでも偏見や差別が「ことば」として長い間使われていた。国際障害者年(1981年)にあたって政府は、法令上の障害者に対する不当用語を廃止することとした。「不具、廃疾」などが法律からとり除かれ、「精神薄弱」という言葉も法律で「知的障害」と訂正された。さらに職業資格上、障害のある人を排除することを法律に定めてある条文(欠格条項といわれる)についても2000年度からとり除かれた。しかしながら、実行上の規則などからは未だ撤廃されてはいない。⑥参加を阻む、まちの環境。障害のある人々の参加を阻む大きな要因として、まちの物理的そして心的環境がある。我々は、全ての人々が参加するまちづくりを考えてこなかったことを大いに反省する必要がある。誰かが使えず結果的に締め出されるようなまちをつくってはいけないことを障害のある人々が教えてくれた。重い障害のある人の参加が阻まれない差別されないまちは、実はすべての人々の住みやすいまちとなることも証明されつつある。
このように差別は意識していないところでも存在している。発達障害とは発達障害者支援法、第二条において、「発達障害は自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害、その他これに類する脳機能障害であってその症状が通常低年齢において発現するもの」と定義されている。また発達障害の中でも「自閉症」「高機能自閉症」「アスペルガー症候群」等は総称して「広汎性発達障害 」といわれている。その特徴として「社会性の障害」「コミュニケーションの障害」「想像力の障害」の3つがあるといわれている。「コミュニケーションの障害」は人の気持ちを想像することが難しい、顔の表情や声のイントネーションなどから読み取れない、言葉を文字通り受け取り、慣用表現が分からない、といったことである。こういったことがコミュニケーションの中で度々現れ、常識から外れるようなことがあれば「異常」と見なされる危険性があるのではないか。このように障害のある人々への偏見や差別は意識しないところで、コミュニケーションという場面であっても存在していると言わざるをえない。
2.健常と障害の中間
今まで述べてきたことを踏まえて健常者とは誰のこと指すのか、健常とはどういった意味で使うべきなのか明らかにしたい。
「健常者」を辞書で調べてみると【心身に障害のない健康な人】と書いてある。また別の辞書では【心身に病気や障害のない者】であった。
「障害」を障害者基本法にある『社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態 』と捉えると「心身に障害のない」とは、「社会的障壁により継続的に日常生活や社会生活において心身が相当な制限を受けていない」と言い換える事が出来るだろう。「健康な人」とは前章でも述べたように、『身体的危機を乗り越えて新しい秩序を打ち立てる能力を持っている人である。』
また1946年WHO定義によると『健康とは、完全に身体、精神、及び社会的に良い(安寧な)状態であることを意味し、単に病気でないとか、虚弱でないということではない』と書かれている。病気ではないからといって「健康」ではないのだ。これら「健康」や「障害」の定義を「健常者」の辞書の意味に当てはめ、解釈すると「健常者とは、社会的障壁により継続的に日常生活や社会生活において心身が相当な制限を何ら受けておらず、身体的危機を乗り越えて新しい秩序を打ち立てる能力を持ち、身体、精神、社会的に完全に良好な人」となる。辞書に書いてある「健常者」の意味を解釈するとこのようになるのだ。これは健常な者というよりは健常な状態にある者と言った方が正しいのではないかと思う。さらに「健常者」を上記の意味として使用するなら、「健常者」であるのは難しいように思える。なぜなら「身体、精神、社会的に完全に良好」というのはかなり個人の性格や気質、環境や経済状態等によってしまうからだ。例えば、気が落ちやすい人は精神的に完全に良好になりづらいだろう。たまたまこういった気の落ちた状態にある人たちは、上記の「健常者」では、健常者ではないかのように思えてしまうという問題点がある。完全に良好でなければ健常者になれないのか。この状態になった瞬間に健常者ではなくなるのかという問題もある。もちろんこういった人たちは障害者ではないので健常者のはずである。すでに述べてきたが、国連の「障害者の権利宣言」(1975年)での定義で、「『障害者』という言葉は、先天的か否かにかかわらず、身体的または精神的能力の不全のために、通常の個人または社会生活に必要なことを確保することが、自分自身では完全にまたは部分的にできない人のことを意味する」としているので、このような人たちは「障害者」ではない。問題なのは上記の「健常者」の意味では「障害者」ではないが「全く健常」と言うことの出来ない人たちをこのような人たちをここでは「中間者」と言い表したい。しかしここでいう中間者は前章で述べた「いかがわしい中間者」とは異なるもので、障害者ではないが全く健常とも言い切れない中間の層のことである。この中間者という言葉を用いて再度「健常者」とはどういった意味で、誰のことなのかを考えたい。
健常者と障害者の間には中間の層がある。「健常者」「中間者」「障害者」をひとつの連続体として考える。これは第一章で述べた「健康」と「病気」を連続体として捉える考え方と同じである。この「健常者」「中間者」「障害者」が連続体にあったとき、両端にある両者の差は一目瞭然である。このように健常と障害を一つの連続体として考えるとその間には、はっきりとした白か黒という境界線は存在しないのかもしれない。白と黒の境界線らしく見えてもそこにグレーゾーンが存在するのは人間がその境界線を判断している以上、ある程度仕方がないことだろう。ここで重要なのは「健常者」と「障害者」の境界線について考えることではない。重要なのは中間者が全く健常の状態ではなくても「障害」を持っていない限り「障害者」ではないということだ。「障害」とは永続的なもので、身体障害は治ることはない。知的障害の基準となっているIQも上昇することはないと考えられている。「障害」を持っていない中間者はその誰もが全く健常の状態になる可能性を持っているのだ。しかし、逆に言えば中間者を含め健常者はいつ障害者になってもおかしくはない。いつ事故に遭って身体に障害を持つかは分からないし、身体障害でいえば中途障害者は先天性の身体障害者よりもはるかに多い。このことから健常は永続的なものではないといえる。
「健常」とは生まれた時から常に「健常」と「障害」の間を揺れ動いているものなのだと筆者は考える。健康(又は健常)と病気(又は障害)の連続体で「今の状態」という点が様々な影響を受けながら瞬間、瞬間で動いているのだ。以上のことから筆者は「健常」を「健康であり、正常であること」だと考え、「健常者」を「健常状態者」と言い換え、「現在、健常な状態にある者」と定義してみたいと思う。
次回に続きます~