コミュ障ナンパ師けけの北海道179ナンパブログ

自由に生きたい、人間大好きコミュ障・自閉くんの僕が型に縛られない自由な対人関係を求めて旅するブログです

学生さん必見!健常者って誰の事?僕の研究結果を見てください③ [障碍者]

はい、どーもけけです!!

前回に引き続きながーくてつまらなーい話になります笑

興味のある人だけ見てやってください笑



ではいこう!


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1.何が正しくて、何が異常なのか

 何が正しくて何が異常なのか。私たちが生活するなかで、正しいと思う事や、異常だと思うことは度々ある。その正常や、異常を辞書はどのように定義しているのか。これについてアレン・フランセスは次のように語っている。『正常について辞書は納得のいく定義を示せていない。哲学者はその意味をめぐって言い争っている。統計学者と心理学者は飽きもせず評価を続けているが、本質はつかめていない。社会学者はその普遍性を疑っている。精神学者はその存在を疑っている。心身医学の医師たちはその境界線を噛みちぎるのに忙しい。正常はあらゆるよりどころを失いつつある。誰もが多少は病んでいるとなりかねない。』

 この引用は実際の状況を端的に説明していると言える。実際に日本の辞書で「正常」を引いてみても『他と変わったところがなく普通であること』と書かれている。「変わったところがなく」とは何のことかと、確かに納得のいく定義とはいえない。医学は正常の「過去」について次のように言っている。『1800年代末まで医学を支配していたのは健康と病気は4つの体液―血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁―の割合で決定されるという説だった。これは人類が最も根強く信じ続けた思想だった。体液説は世界最高の頭脳が100世代にもわたって抱き続けた信念であり、400年の間、医療行為を左右した。正常への近道は体液の完璧なバランスを取ることだった。生理学や神経科学が劇的に発展し、体液説は19世紀末になってようやく古い物置へと追いやられた。 』過去400年にわたって私たちの健康は体液の割合によって決められていた。「正常」とはこの体液のバランスによると考えられていたことになる。

 このような「正常」の考え方はなくなったが、現在「正常」についての有用な定義は行うことができていないのだろうか。塚崎智 、加茂直樹らは著書の『生命倫理の現在』(2011年)で「正常」について「健康」と共に次のように定義している。『正常と健康は異なるものであり、健康であることと正常であることとは同一ではない。健康とは、一時的に正常と定義されている規範をはみ出す可能性であり、新しい局面に新しい規範を設ける可能性である。健康な人とは、身体的危機を乗り越えて新しい秩序を打ち立てる能力を持っている人である。逆に、病人とはそのような能力の減退している人である。正常とは与えられた条件の中で規範的であるということである。』

つまり正常と健康は似ているが、全く考え方は異なるとしている。この場合の身体的危機とは病気や怪我等だと考えられる。このような危機を乗り越えて新しい「秩序」を打ち立てる能力を持っている人が健康な人なのである。そして正常とは与えられた条件の中で規範的であることであり、正常な人とは与えられた条件の中で規範的な人を指す。つまりこの正常の定義から考えると異常とは与えられた条件からはみ出すことということになる。「与えられた条件」とは法律であり、規則や規律、ルールともいえる。そういった条件からはみ出ることは異常と見なされるのだ。これらは常識とも考えられているし、法律、規則、規律、ルールに従うのは当然の事といえるだろう。「与えられた条件」は「常識」とも置き換えられると私は考える。常識の範囲内で規範的であることが「正常」なのだ。しかしこの「正常」の定義から「与えられた条件(常識)」の中で規範的であることの条件または常識を決めるのは誰なのかという疑問がある。法律であれば裁判官だろうか。条件または常識を決めているのは誰なのか。次の章でそれを明らかにしていきたい。





2.各時代による「常識」の検討

 西洋の歴史の中では「普通ではないこと」は「狂気」として扱われてきた 。この場合「狂気」は精神疾患と理解されていたという歴史もある 。ある意味「狂気」は時代によってその姿を変えてきたといえる。構造主義 の哲学者であり、歴史家でもあったミシェル・フーコーはこの「普通とは何か」「狂気」について考えた代表的な人物の一人である。科学 は、自然科学と、人間科学(人文科学)とに区別されているが、フーコーは後者の人間科学は徐々に進歩し時代を通じて一貫して発展してきたものではなく、時代ごとにスタイル(常識)の断絶があると考えていた。これは時代ごとに固有のスタイル(常識)があったということだ。フーコーは各時代の「普通・常識」について以下のように考えている。『各時代には固有のエピステーメー(思考の枠組み)があり、これに沿っていることが「普通」であり「正気」である。「正気」「狂気」に基準はなくそれぞれの時代の枠組みがそれぞれの「狂気」をでっちあげたにすぎない。』各時代には「知」のスタイルがあり、フーコーはこれを「エピステーメー 」と呼んだ。

『それぞれの時代の枠組みがそれぞれの「狂気」をでっちあげたにすぎない』とされた。このそれぞれの時代のエピステーメーについて3つの時代をフーコーは挙げている。まずはルネサンス時代である。この時代の知・認識のスタイルは諸物の「類似」を見出すことにあった。次に古典主義時代、この時代は「表象」がキーワードとなり世界中のあらゆるものを単純な記号や絵などで代表させようとした時代である。最後に近代、「有機性」をキーワードとし、ある対象の有機的な機能・仕組み・関連性を解明しようとした時代だとした。これら各時代に、それぞれの知のスタイルがあったのだ。各時代にそれぞれの知のスタイルがあったという事は常識、普通、正気等の基準もまた各時代で異なっていたことになる。これらが各時代で異なった理解をされてきたということは、今現在の私たちの常識、普通、正気等も将来無効になると考えることもできるだろう。

私たちの住む「近代」での人間理解は、「性格」「個人史」「正常と異常」等で成り立っているが、こういった「人間」の理解、これは早晩失われるだろうとフーコーは考えていた。また科学は誰もが認めざるを得ないこの世の真相である「真理」であるが、フーコーの考えにのっとり、各時代で「真理」が異なっていたとすれば、そもそも「真理」とは何かという疑問が現れる。『「真理」とは政治的な戦略を秘めたものではないか、時代の権力に要請されたものではないか』、このような視点 がフーコーの着目点だった。「エピステーメー」とは時代ごとの知の枠組みであり、歴史は連続したものではなくその時代ごとに断絶がある(非連続的である)のだ。これは今のポスト・モダン や構築主義の立場に通じている。

「狂気」をでっちあげる思考の枠組みの背後には権力構造が共犯関係として存在しているとフーコーは語っている。その権力が規範からはずれた人間を矯正し支配関係を強化しようとするカラクリだという。各時代の権力が条件(常識)を決め、規範化し、その規範からはずれた人間を「異常者」または「狂気」と仕立て上げた。そういった人間を矯正することで権力はその力を強化していく。フーコーはこう考えていたのだ。この考えによれば、「正常」であることの条件(常識)を決めているのは「権力」ということになる。


では現代のエピステーメー、つまり私たちが暮らす現代の思考の枠組みとは何だろう。思考の枠組みは子供の教育現場である学校、犯罪者の監禁・懲罰が行われる監獄など公的な場で人々に埋め込まれていく。そのような堅苦しい場所だけではなく、居酒屋やデパート、家庭などにおいても、私たちは何かしらの思考様式を取り込んでいるのだ。構造主義とはこのようなことをいい、私たちはそれに支配されていると気付かずに既に存在している思考の枠組みに組み込まれている。この思考の枠組みにおいて、現代の日本で特徴的なものだと思う事がある。それは「空気が読めない」という考え方だ。例えば、複数人で共通の話題を話し盛り上がっている時、突然全く別の話題を話すとする。話の流れを全く無視して「そういえば昨日の話なのだけど」と言い出す人がいる。この場合、現在の話題が落ち着くか、終わるのを待つのが複数人での会話の常識ではないだろうか。これは誰かに教えられて学んだというよりは、「今は話してはいけない」「話が終わるのを待つべきだ」という「空気」つまり状況・判断を経験から感じ取ることだと思う。

ここで話してしまえば「空気」つまり雰囲気が壊れてしまうと感じ、話すのを止める。ここでいう「空気」は学校の授業や教科書で教えてはくれない、いわば暗黙の了解の事である。言わなくてもわかるだろうという考え方や、タブーともいえると思う。既に形成された規則や規律、ルールがあり、それが絶対の「常識」となっているのだ。絶対的な常識であるから誰も口にしない。わざわざ言うまでもないからだ。

しかしある所では常識だが別の所では非常識と捉えられる事もある。アメリカでは目上の人と話す時に足を組むという習慣がある。しかし、日本でこの行為は失礼だと考えられている。このような「空気」に馴染めている事が「普通」、そうでない人はバッシングを受けるというのもフーコーが語っていたものに近いと考えられる。この「空気が読める」という考え方が、私たちの暮らす現代の特徴的な思考の枠組みだと考える。
 「思考の枠組みの背後には権力構造が共犯関係として存在している」と前述したが、権力は様々な場面で様々な者が持っているものだと思う。日本であれば民主主義で国民主権であるが、権力構造からみれば為政者が覇権を握っている。ホテルであれば支配人、会社であれば社長、こういった者たちが権力の体現者であり、権力者となる。では「正常」や「異常」の思考の枠組みにおける権力・権力者とは誰のことを指すのだろうか。次にそれを知るために「普通でないこと」が「狂気」として扱われたその時代と歴史を整理していくことにする。





次回に続きます~

こっちの方でも昔ちらっと話したりしてます
sakanouenannpa.hatenablog.com

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